「また……お会いしたいですね……」
ルフレは小さく手を振り、穏やかな声で言う。彼女の手で終止符を打たれた邪竜は、彼女によく似たその姿をすでに霧散させていた。
似ても似つかぬモノであれ、邪竜は彼女であり、彼女は邪竜となり得る世界でただ一人の人だった。それを自らで殺すことの意味を、そして我が身の行く末を、彼女は理解していた。呟いたその言葉が星に願いを捧げるように、微かで心もとないものだということも知ったうえでのことだった。
ルフレの夫であり半身であろうと誓ったクロムは、そんな彼女の心のうちを感じていた。わかっていたのだ。彼女が自らこの悲劇に幕を引こうと決意していたことくらい、たとえ必死に制止したとて彼女の心が揺らがぬことくらい、痛いほどに彼はわかっていた。わかっていたのに、世界と自身の運命は変えられたのに、一番近くにいた彼女の運命を変えることが出来なかったのだ。
もう抗えぬのだとクロムが悟ったのは、ルフレの言葉を、彼女の姿を一片足りとも忘れまいと身構えている自分に気付いたからだ。己の無力さにその身は震え、彼女を失いたくないという想いが諦めかけている自分自身を激しく責め立て、心のなかはぐちゃぐちゃだった。
目の前の現実は無情だ。茜色の世界がルフレを受け入れるかのように、振り向いた彼女の姿はだんだんとその境界を曖昧に溶かしていく。振れる彼女の指先から、救われた世界へ祝福を振りまくようにしてさらさらと光がこぼれる。
「ルフレ……だめだ……」
呆然としたクロムの口から言葉が漏れる。微笑むルフレの表情に、その目に淋しげな色が挿すのを彼は見た。彼の手から希望の光、ファルシオンがゴトリと音を立てて滑り落ちる。それにも構わず鉛のように重たくなった体を引きずるようにして、クロムはその手を彼女に向かって懸命に伸ばした。
「行くな、ルフレ……っ!」
力の入らぬその声は震えていた。届いた彼の手はルフレの体を繋ぎ留めようとして虚しく空を切る。やり場を失った勢いはクロムの膝を地に落とし、そんな彼を気遣うように彼女のカタチをしていたものが彼の周りをふわりと漂い、そして消えた。それ以外に、後に残るものは何一つとしてありはしなかった。まるでルフレという人間など、この世界に存在しなかったかのように。
***
「どうしたんですか、クロムさん。なんだかうなされていたみたいですけど」
心配の色がにじむ声にクロムは気がついた。ルフレが覗きこむようにして彼を見守っている。未だぼんやりと霞がかったような意識のまま、クロムは吐き出すように息を漏らした。彼女の向こうに見える空は青々と茂る大木の葉に覆われていて、ああ、自分は今彼女と共に城の中庭で過ごしていたのだったか、と考えた。頭の下、彼女の柔らかな腿の感触を確かめながら
「……お前が消えてしまう夢を見た」
クロムがそう呟くと、ルフレは目を丸くした。
「私が?」
「ああ。俺は、どうかしているな。こんな悪夢を見るなんて」
苦々しげにクロムは言う。そんな夢を見た自分自身を非難するような様子で、それは口ぶりだけでなく彼の眉間に寄った皺からも見て取れた。
ルフレはやさしく微笑むと、ひざに乗せたままの彼の頭を慈しむようにそっと撫でた。心地よい、とクロムは思う。いつまでも触れていて欲しいと感じたが、不思議とそれを子どもっぽい幼稚な願いだとは思わなかった。
「大丈夫ですよ、私はここにいます。……少し、疲れているんですよ」
「そう、だな。そうかもしれん」
言われてみれば身体が重く感じる。こうしてルフレと過ごす穏やかな時間もずいぶんと久しぶりのような気がした。まだどこかぼんやりとした頭のまま、クロムは自身の頭を撫でていたルフレの手を取る。柔らかな手の感触が深く、深く体に染みていくようだった。
「クロムさん」
「ん?」
「私はいつだって、あなたと共にあります。それを忘れないでくださいね」
ルフレの声は凪いだ風のように静かに落ち着いていた。クロムに小さく微笑むと、彼女は言葉を続けた。
「そうすれば、きっと……たとえはぐれたって、私たちはまた巡り逢えます」
「ルフレ……」
言葉の意味を問いたかったのか、それとも彼女の言葉を受け止めたかったのか。どちらともわからないまま、クロムは彼女の名を呟いた。胸の内で不思議な感覚が渦巻くのを感じていたのだ。愛しい、と思い、哀しい、とも思った。それが何故かわからず、ただどこか心もとなくなってルフレの手を強く握り直す。
不意に、ルフレが何かに気付き顔を上げた。
「あ……ルキナが泣いています。可哀想に」
「ルキナ? 一体どこに……」
言われてクロムも辺りを見回すが、二人の大事な幼子の姿は見当たらない。それどころか、ルフレが示すその泣き声すらクロムにはわからなかった。戸惑うクロムに、ルフレはつぶやくように言葉を落とす。
「クロムさん、ルキナのこと……よろしくお願いします」
言い終わると、ルフレはゆっくりクロムに顔を近づけその頬に触れるような口づけを残した。離れていったその顔をクロムは見上げる。彼女の言葉はどこか遠い感じがして、違和感を覚えた。
「? どうした、ルフレ。お前も一緒に」
言いかけてクロムは言葉を途切れさせた。続けることができなくなった、というほうが正しかった。
「私は……何もしてあげられないから」
そう言って微笑むルフレの目は淋しげで、今にも消え入りそうな儚さをクロムは感じた。離すまいと握りしめたはずの彼女の手の感触がわからなくなる。ああ、俺はこの目を知っている、と彼は思った。世界から色もカタチも、すべて失われていくような気がした。
***
呼ぶような泣き声に意識を揺さぶられて、クロムは顔を上げた。どうやら机に突っ伏して眠ってしまっていたらしく、読みかけの本が広げられたままになっていた。穏やかな風がさぁっと吹いて、カーテンを揺らしている。風が本のページを撫でると少しカビ臭い書物独特の匂いがクロムの鼻をくすぐった。
だんだん頭が覚醒してくると、状況が意識に馴染んできた。そうだ、久しぶりに時間がとれたから自室で読書でもしようと決めたのだった。それに普段はあまり一緒にいてやれないから、ルキナも傍で見ていてやろうと思ったのだ。そこまで考えてクロムはハッとする。
「そうだ、ルキナ……」
ガタンと椅子が音を立てるのも構わず、すぐに立ち上がるとクロムはゆりかごの中で泣いているルキナの元へ向かった。遊んでやると喜んでいたのだが疲れたのか程なくして眠ってしまったので、クロムは読書に専念することにしたのだ。そんな彼も気がつけば意識を手放していたのだが。ルキナがいつ目を覚ましたのかはわからないが、おそらくそれ程前のことではないのだろう。
クロムがそのたくましい腕で抱き上げてやっても、ルキナはまだぐずついたまま声をあげている。おしめを替えて欲しいのか、それとも腹をすかせているのか……などと思い浮かべながら、ふと夢のなかでのことをクロムは思い出した。あの心地よい感覚は彼に深く浸透していて、夢だということが嘘のように満たされていた。そのせいだろうか、胸が締め付けられるように苦しくなる。
クロムはルキナを抱いたままその頭をゆっくりと撫でてやる。まだ柔らかな髪はひな鳥の羽毛のようにふわりとして気持ちが良く、赤子独特のやわらかで甘い匂いがした。
「ルキナ、俺はここにいる」
撫でながら安心させるようにクロムが言うと、ルキナはだんだんとその嗚咽を落ち着かせていった。涙で濡れた目はガラス玉のようにきらりと光を漂わせてクロムを見つめている。
淋しいのではないか、とクロムは思った。ルキナはまだ赤子だ。言葉もほとんど伝わらないだろうし、自分が置かれている状況を理解しているはずもない。ただ、クロムが父で、ルフレが母だということを本能で感じている程度なのだろう。そして、おそらくその母がどこか遠くへいってしまったということも、感じとっているのだろう。
乳母からルキナがたまに唐突に泣き出して止まないと聞いたことがある。それはそのせいなのではないかと、クロムは思っていた。
淋しくて不安なのだろう。だから、夢に見るのだろう。ルキナもそうなのではないかと感じるのはあのやさしくて哀しい夢のせいだろうと、クロムは思った。
「大丈夫だ。ルフレは、お前の母さんは帰ってくる。俺は、あいつと紡いだ確かな絆を信じている。だから……また巡り逢えるんだ、必ず」