あいのうた

 きっと今日、世界で一番幸福なのは自分なのだろう。不安定な戦いの日々にも関わらず、共に戦う仲間たちは心をこめて俺を祝福してくれた。妻と娘と息子からは、三人で選んだという贈り物まで貰った。今日という日はたくさんの「おめでとう」で彩られ、夕食はつかの間の宴として華やかに賑わったものだった。
 ひとつだけ。ぜいたくだと知った上で願うならば、愛しい人と二人で時を過ごしたい。そんな淡い願いは、きっと時間切れなのだろう。宴の場からいつの間にか姿を消した彼女は、宴が終わっても俺の前には現れない。
 これ以上を望むなんて、欲張りになっている証拠だ。今日の俺は、充分すぎるほどに幸せ者だ。言い聞かせながら天幕に戻ってくると、机のうえに見慣れないものが置いてある。手にとったのは長方形の白くて四角い封筒。「クロムさんへ」と書いてあるそれは、俺の帰りを待っていたらしい。見慣れた字だと気付いた途端、胸の中で期待が踊りはじめた。封を切るのがまどろっこしい。いやいや、焦るな、少し深呼吸をして。丁寧に折りたたまれた一枚の手紙を、初めて見る景色のように、この目に映す。
 言い聞かせた言葉は、なかったことにした。もうひとつだけ、許してほしい。今すぐに、ただひとつ、どうしても叶えたいことが出来た。世界中の何より尊い一枚の手紙を懐に大事に仕舞って、俺は天幕を飛び出す。なりふりなど構わず、すれ違う人に手当たり次第問いかける。

「ルフレが何処に行ったか知らないか?」

 皆が首を傾げる中、「近くの川辺に行くと言っていた」と教えてくれた人がいて、軽く礼を告げると足早にそこを目指す。天幕の灯りを横目に、宴の名残の喧騒をくぐり抜ける。一歩踏み出すごとに、逢いたい気持ちが心の中に積もっていく。


―生まれてきてくれて ありがとう―

 あいつはどんな風にしてこの手紙をしたためたのだろう。
 どんな表情で、どんな気持ちで文字を綴ったのだろう。


―私を見つけてくれて ありがとう―

 初めて出会ったあの日のことを、思い返していたのだろうか。
 手を引いて起こしたあの初めての触れ合いを、今も覚えてくれているだろうか。


―あなたが しあわせでありますように―

 気付いてくれているか。
 名を呼ばれるたび、触れられるたび、俺の心が喜びであたたかくなること。


―あなたが わらっていられますように―

 知っているか。
 お前と出会ってから、お前に恋をしてから、笑顔がやさしくなったと人から言われること。


―あなたと出会えた奇跡が 私のいちばんのしあわせです―

 出会うまでどうやって過ごしていたのか、今ではもう思い出せないんだ。
 お前がいない日々なんて思い描くこともできない。
 今だって、ほら。逢いたくて仕方がないんだ。
 ルフレがくれた言葉のひとつひとつが星のように胸の奥で光るほどに、俺の心には愛しさが満ち溢れていく。


―私と 生きてくれて ありがとう―

 夜のやさしい帳の中、淡い月の光と傍らに置いたランプの灯りでやわらかく照らされた彼女が、そこにいた。穏やかな川の水音と共に、佇む後ろ姿がある。静かに、静かにその距離をうめて、もう逃さないつもりで後ろから包み込むように抱きしめる。彼女が小さく悲鳴をあげるのすら、耳に心地よい。

「手紙、読んだぞ。嬉しかった」
「そうですか……喜んでもらえて、良かった」

 出来るだけ抑えて告げた言葉に、腕の中のルフレは嬉しそうにはにかんでくれた。

「ひとつ、わがままを言ってもいいか?」
「何ですか?」
「あの手紙、どうかお前の声で伝えてくれないか」

 そう言った途端、彼女の頬に朱が差す。

「直接お伝えするのが、その……少し恥ずかしかったからお手紙にしたんですが」
「それでも、お前の口から聞きたいんだ」
「う……どうしても?」
「ああ」

 少し意地悪かと思いつつ、それでもどうしても譲れなくて言い切ると、ルフレは少し躊躇ってから意を決したように息を吐いた。重ねた体から彼女の胸の鼓動が伝わってくる。少し、早い。

「じゃあ、このまま……後ろで、聞いてください」

 そう言って、体に回した俺の腕をルフレがそっと掴む。それから少し震えた声で、言葉が始まる。
 手紙の中につづった言葉を、彼女はひとつも漏らさず、過たず、ゆっくりと音にしていく。恥じらいながら、耳を赤く染めながら、それでも続く声はすべて、俺のために彼女が生み出した言葉。彼女の心地よい言葉が止むと、俺はあたたかな気持ちのまま口を開いた。

「手紙には、返事をしなくてはな」
「クロムさん?」

 問いかけるようにしてルフレが俺を振り仰いだ。彼女を抱く腕はなるべく離さないようにして、ルフレを俺に向き直らせる。戸惑う彼女に何も告げず、少しその体を引き寄せて唇を重ねる。この気持ちが全部、彼女の中へ流れこんでしまえばいい。そんな願いを舌先から贈るように、彼女の唇を割ってその奥へ、深く深く口付けを絡ませる。俺の胸に添えられた彼女の手が小さくきゅっと服を掴んだ。それに応えるように、彼女の背に回した腕に力を込めれば、ますます深く繋がるような気がした。

「ふっ……んう……」

 しばらくそうしているとルフレが甘くも苦しそうな声を上げたので、少しやりすぎたかと思いゆっくりと唇を離した。彼女の上気した頬と、とろんとまどろんだ目を見れば名残惜しさを感じる。

「俺の返事は伝わったか?」
「普通は、言葉で返すものですよ……」

 少し呆れたようにルフレが言う。

「嫌だったのか?」
「嫌なわけ……ないじゃ、ないですか」

 そう言うと恥ずかしくなったのか、ルフレは俺の胸に顔をうずめてしまった。可愛い人だと、改めて思う。その人が、俺を想ってくれているということ、この腕の中にいるということ。この先も、共に歩んでいくということ。普段は照れくさい言葉も、彼女の素直な想いに触れた今なら躊躇わず言葉にできる。

「俺と生きてくれてありがとう」

 ルフレが顔を上げる。目が合えば、自然に笑みがこぼれる。
 こんなにもあたたかく、俺を想ってくれる人がいる。二人が愛した証が、娘と息子が健やかに生きている。これ以上の幸福なんて何も望まない。明日からはまた、人々の幸福のためにこの身を費やそう。だからせめて今日が終わるまでは、もう少しだけ。人の形をした幸せと共に、月を見上げていたいんだ。

「なあ、ルフレ。今夜は……月が綺麗だな」




(クロム誕生日おめでとう!)
(月が綺麗ですね = I love you )
ムク / 2012年5月27日
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