ルフレはじっと待つ。いつの間にか胸の前で組んだ手が、じっとりと汗ばむ。
彼女の見つめる先、角ばった眼鏡のよく似合う老夫人のきりっと厳格な表情が、その時ふっとやわらいだ。
「合格です」
「ふぅ……良かったです……」
固く結んだ手をほどき、心の底からの安堵の息と共に胸をなでおろした。
学んだことに自信が無かったわけではないが、試験となると、やっぱり緊張するものだ。特にこの老夫人先生の目は厳しいものだから、なおさら。
「国の復興作業も忙しいのに、よくここまで頑張りましたね。あなたは物覚えもよく、飲み込みも早いので教えるこちらとしても助かります」
「そんな、先生のご指導がとてもわかりやすかったからですよ。戦術を学ぶのと教養や作法を学ぶのでは、勝手が全然違いますし」
「そうね。あなた、最初は本当に何も知りませんでしたからね。大変教え甲斐がありましたよ」
「あ、あはは……」
先生流のちょっとぐさりと刺さるジョークに、苦笑いで返事をする。確かに、始めた頃を思えば自分でもよくこれだけ覚えられたなと思う。
今から半年ほど前、イーリスと隣国ペレジアは戦争になり、結果としてイーリスの勝利で幕を閉じた。しかし、戦争は大きな傷跡を残していった。
争いで土地は荒れ、多くの人々の生活は奪われ、たくさんの尊い生命が失われた。その中には、イーリスの聖王エメリナの命もあった。姉である彼女の遺志を継いで聖王代理として立ったクロムは、それから本当の平和を取り戻すためにずっと努力し続けている。
ルフレもまた彼と共に国の復興のために努めているのだが、傍にいるのはそれだけが理由ではない。まだ彼女たちがペレジアと戦っていた頃から、いや、二人が初めて出会った日から、ルフレとクロムは恋に落ちていた。そして、平和を取り戻せたその時、ルフレは彼の想いを受け入れると約束したのだ。
クロムはそれを実現させるため、行く当てのない彼女をイーリス城に住まわせ、二人は互いに忙しい中、結婚の準備を少しずつ進めてきた。
そのひとつとして、ルフレは上流階級の教養と作法についてのレッスンを受けている。
彼と結婚するということは、つまり王族の一員になるということだ。そうなると立場に見合った振る舞いが求められる。
今回の試験は、王族として人前に立つに相応しい知識と振る舞い方が身についたかを確かめるものだった。もちろん覚えることはまだまだあるらしく、今回の合格も通過点のひとつにすぎない。それでも、二人にとっては確かに意味のある通過点だった。
「これだけ覚えていれば上流階級の方々と接する分にも問題はないでしょう。あなたは元来の口調も丁寧なので、余程のことがない限り大丈夫とは思います」
「でも、自然にこなせるようにならなければ、身に着けたとは言えないですよね」
「こういうものは実践と慣れですよ。社交界や王族の一員となれば、機会は向こうからやって来ますから、心配せずとも身についていくでしょう」
先生の言葉には揺るがない安心感があった。
その一方で、社交界や王族の一員という言葉に未だにピンとこない自分がいる。
城に暮らすようになって約半年、それ以前にも王族や貴族と接したことは何度もあったが、自分もその一員になるというとどうも想像がつかない。
「ああ、そういえば」
「はい?」
片付け始めていた手を止め、先生の方を見る。
先生は珍しく表情をくもらせ、重そうに口を開いた。
「大変言いにくいことですが、ちゃんと伝えておかなければね。ルフレさん、本当に残念なことなのだけれど、高い階級や権力を持つ方々の中には、あなたを好ましく思われない方もおられます。私はあなたの人柄をちゃんと知っているけれど、人々の中にはあなたの出自が知れないという上辺だけを見て、あなたを判断してしまう人もいるのよ……。それを払拭していくには、長い時間と努力が必要だわ」
先生は残念そうに首を振った。
ルフレはそれが事実であることを知っている。直接言われる事はないが、向けられる視線や漏れ聞こえるひそひそ話……そういったものから感じ取ることはできた。
記憶喪失で出自不明。行き倒れからの異例の大抜擢。
自分の立場を思えば、仕方のないことだろう。気持ちの良いものでは決してなかったが、いちいち気にしていては前に進めないし、今すぐ解決できることでもない。そう思って割り切っていた。
だが、こうして気遣ってくれる先生の心遣いは嬉しく思う。
「自分で言うのも何ですけど、確かに得体のしれない人間ですしね」
軽い調子で何気なく笑うと、思いがけず先生は気の毒そうに眉を寄せた。
「まあ、卑下するのはおやめなさい。あなたは私にとっては優秀な生徒ですよ。ただ、そうね……最近復興支援のためにと、ご自分の領地から王都に上がって来られているモントレー侯爵という方がおられるのだけれど。そのお方には特にご注意なさい。有力な貴族ですが、あまり良い噂を聞きませんし……ああ、少し話しすぎました。どうかここだけの話にしてちょうだいね」
「わかりました。失礼のないよう気をつけておきますね。ご心配ありがとうございます」
そう礼を告げると、先生は少し笑って「私はあなたたちを応援していますよ」と優しい言葉をくれた。
* * *
「それで、部屋に戻ったらいきなり取り囲まれて『ドレスの仕立てのためサイズを測らせて頂きます』なんて言われるんですよ。もう、呆気に取られてる間にどこもかしこも採寸されてしまって」
昼下がり、ぽかぽかと陽光があたたかい中庭で、ルフレはリズと丸いガーデンテーブルを囲んで話をしていた。
お茶を飲みながら一緒にくつろぐこのひとときは、最近の楽しみでもある。今話しているのは、あの試験の後の出来事についてだ。
「うわー……それはびっくりしちゃうね。ところでルフレさんのスリーサイズっていくつだったの?」
「たしか、上から……って、言いませんからね!? 恥ずかしいじゃないですか!」
すんでのところで止めると、リズはいたずらが見つかった子供みたいにあまり反省の色のない笑顔を浮かべた。
この手に乗せられうっかりしゃべったあれこれを思うと、後悔先に立たず、だ。
「気になったのになぁ。で、それって何のドレスだったの?」
「えっと、夜会用のドレスでクロムさんの指示だと」
上流階級や権力者たちの集まる夜会。いずれそれに自分も参加し、婚約の発表を行うという話は以前から聞いていた。
結婚のための大事なステップであり、今日の試験に合格することはその条件のひとつだったのも理解している。けれど。
「それにしても、急過ぎますよ……試験だって今日合格したばかりなのに」
思わずため息が漏れる。
何もそんなに早く手配しなくても、と思った。
せめて前もって知らせてくれていれば、少しくらい食事に気を使ったりもできたのに。こんな自分でも乙女心と呼ばれるものを持っているのだ、一応。
不満が顔に現れているルフレに、リズはなだめるようにふふっと笑った。
「お兄ちゃん、きっと嬉しいんだよ。早くルフレさんのこと、婚約者として紹介したかったみたいだし」
「うーん……そういうものなんですかね」
彼女の言うように喜んでくれているのなら、それは自分にとっても嬉しいことに変わりない。クロムとの婚約、結婚だっていつかはと夢見て楽しみにしてきたのも、同じだ。
でも、なんだろう。最近、どこか心に引っかかるものがある。
何がどう、というわけではないけれど、最近の彼はまるで急いでいるような、焦っているような……そんな気がするのだ。
やることがたくさんあって単に忙しいだけなのかもしれないと思いつつ、ルフレはどうも気になっていた。
「あ。噂をすれば」
リズの声にハっとして彼女の視線をなぞると、渦中の人物の姿が見えた。どうやらこちらに向かってきているらしかった。
「クロムさん?」
「ルフレ、ここにいたのか。探したぞ」
そばまで来たクロムにリズがお茶をすすめると、彼は立ったまま味わう間もなくグイっと飲み干した。のどが乾いていたのかもしれない。そんなふうに飲んだらもったいないよ、とリズが文句を言うが、クロムはあまり気にしていないようだ。
「ドレスの仕立ての準備は済んだか? 手配しておいたんだが」
「済みましたけど、あんまり急だったんでびっくりしたじゃないですか! ありがたいとは思いますが、せめて前もって知らせておいてください」
「すまん。お前がドレスを持っていないと最近気付いたからな。今度の夜会に必要だし」
「今度って、開くことが決まったんですか?」
「ああ、復興作業もなんとか形になってきたからな。近々慰労の夜会を開くことになった。良い機会だから、その場でお前を正式に紹介したいんだ」
戦後の厳しい時に、贅沢をする訳にはいかない。でも、上に立つものとして尽力者たちを労うこともまた、必要な気遣いだ。
人々が祭や酒場で過ごす時間を楽しむように、上流階級の人々も社交の場で楽しむ。クロムが言う夜会とは、そういうための場のことだ。そしてそこで、婚約を発表するつもりらしい。
「あ、そうだお兄ちゃん。今度の夜会って舞踏会なの?」
「そうだ。長らく開けなかったからな、そういう要望が寄せられている」
「え?! ま、まさか……私も踊るんですか?」
リズとクロムの会話に嫌な予感を覚えて思わず口をはさめば、二人の視線は言葉以上によく答えてくれた。
何を当たり前なことを、と言うように。
「当然だ、初めて夜会に参加する女性は踊るものだからな。お前、ダンスの経験は?」
「そ、そんなもの無いですよ! というか、あったとしても覚えてないですし」
「そういえば記憶喪失だったな」
「クロムさんって、そういうところ大物ですよね……」
人によっては何よりも大事になりそうな部分を、彼はまるで今朝の朝食を思い出したかのように、あっけらかんと言う。
呆れる気持ちも少しはあったが、そういう大らかさに救われているのもまた事実で。ルフレの中に腹を立てる気持ちは少しもなかった。
「過去の記憶があってもなくても、お前はお前だろう?」
クロムは、ルフレにやさしい眼差しと共にやわらかな笑みを向ける。
彼はわかって言っているのだろうか。こんな風に言われると、もう何も言い返せなくなるということを。
言葉を返せずじっと視線だけ返すと、クロムは満足気に微笑んだ。
「リズ、こいつを借りていくぞ。もうあまり日がない。ダンスの練習をしないとな」
「はーい。でも、あんまりルフレさんに無理させちゃダメだからね!」
行くぞ、と促されてルフレは席を立った。リズの心遣いに感謝しつつ、またお話ししましょうと約束すると彼女は嬉しそうに笑った。
ルフレがクロムに連れられてやって来たのは、がらんと広い空き部屋で、彼女たち以外には誰もいなかった。調度品もあまり置かれておらず、動きまわるにはちょうど良い。
この城には知らない部屋がまだまだたくさんありそうだと実感する。
「そういえば、クロムさん踊れるんですか?」
「当たり前だ。でないと教えられないだろうが」
今更と言えば今更な疑問と、それに対する答えに、ルフレは驚きを隠せない。
いつもは剣を振るい、訓練すればよく物を壊し、たまに壁も壊したりするあのクロムが。踊る。それはルフレの想像の及ばない姿で、はっきり言えば少し面白かった。
そう思っていることはどうやらクロムにも伝わったらしく、彼は不満げにじとりとした視線を投げかけてくる。
「……なんだ、その顔は」
「いえ、だって……そういうイメージがなかったので」
「あのな、俺だって王族なんだぞ。好き嫌いはともかく、覚える必要があったんだ」
「そういえば、クロムさん、王子様でしたね」
王子様的なイメージよりもそれ以外の部分の印象が強く、ともすれば忘れそうになる。
良く言えば、親しみやすいということだ。
「……お前も、あまり人のことを言えないじゃないか」
「だって、クロムさんはクロムさんでしょう?」
まるで、さっきの仕返しのような言葉を返す。ただの言葉のアヤじゃなく、本当にそう思っていた。
ルフレがじっとクロムを見つめると、彼の青い目は少し揺らいで、それから降参するように表情を和らげる。つられてルフレも頬をほころばせた。
「とりあえず、基本的なところから始めるか。しっかりついてこいよ」
「はい!」
そうして、二人は手を取った。
慌ただしく日々に追われる中で、ルフレは彼の近くにいるはずなのに、共に戦場を駆け抜けた日々よりも遠くにいるような気がしていた。
だからだろうか。慣れない日々に疲れていても、ダンスの練習のためだとしても、こうやって身近に彼を感じ、触れ合えるこの時間がとても愛しいものに思える。
このぎこちないばかりの動きが、彼と舞えるほどに上達したとき。
私は、私たちはどういうふうに変わっていくのだろう。
思い描こうとするものの、今のルフレにはまだうまく想像できない。
ただ、こうして二人で笑い合っていられればいい、と。そう、思っていた。