「ふぅ……マーク、今日はこの辺りにしておこう」
大きく息を吐いて、クロムは構えた訓練用の木剣を降ろした。
息子のマークと打ち合いを始めてからどれくらい経ったのか正確には覚えていないが、最初は抜けるように青かった空が茜色に染まっているのを見ると、それなりに長く続けていたらしい。
「は、はい……ありがとうございました、父さん。僕、もうクタクタですよ〜……」
クロムには心地よく感じるくらいの程よい疲労感だったが、相対する彼の大きな息子にとってもそうという訳ではないようだ。率直な言葉と相まって、だらんと垂れた腕や猫のように丸めた背中が正直に彼の疲れを訴えていた。
それ程厳しくしたつもりはないが、次からはもう少し加減を考えてやったほうが良いのかもしれない。
「そうだな、汗もだいぶかいているし、食事の前に風呂に入ってきたらどうだ?」
「ああ、それいいですね……あっ! そうだ!!」
いいことをひらめいた! と言わんばかりにマークはがばっと体を起こし、疲れなんてどこ吹く風の活き活きとした目でクロムを見る。
不覚にもその音量と勢いに驚かされ、ビクッと走った衝撃に思わず木剣を取り落としそうになった。
「な、なんだマーク?」
「父さんも一緒に入りましょう! そうすれば二人ともさっぱりして良い感じです!」
「い、一緒に!? いや、俺は体だけ拭いて後で入るから、とりあえずお前が先に入れば……」
「父さん……汗臭いと食事の時に母さんに嫌がられますよ?」
「えっ……そ、そんなに臭うか?」
どことなく哀れみのこもったような声と視線でそんなことを告げられれば、気になってしまうのが人情というもの。
クロムは思わず体の匂いを嗅いでみる。言われればそんなような気もするが、ルフレに嫌がられるほどのことなんだろうか。
その程度の疑問を抱くぐらいの反応でも、マークにとっては十分らしかった。好機とばかりにクロムの二の腕をがっしり確保して良い笑顔を見せる。
「ということで! さあさあ、一緒にお風呂にゴーですよ父さん! 食事前のお風呂は奪い合いなんですから早く行かないと!」
「おわ、ちょっ、おい引っ張るなマーク!」
クロムの反論も虚しく、彼の体はずるずるとマークに引きずられ始めていた。
こうなるともう観念するよりほか、彼に残された選択肢は無いに等しい。内心の悪態はもはや言葉にする気も起きない。
さっきまでのびた猫みたいにぐったりしてたくせに、一体どこからこんな力が出せるんだ。それを剣術の練習で活かせよ、剣術で!
* * *
「お風呂空いてて良かったですね!」
「……そうだな」
すっぱだかの男二人が世辞にも広いと言えない浴用天幕で仁王立ち。
なぜ、俺まで一緒に入るハメに。
マークの発想に未だ拭い切れない疑問符を抱えたまま当の本人のほうをちらりと見遣れば、彼はふんふんと鼻歌混じりで楽しそうに桶や湯の準備をしている。
(……まあ、いいか)
クロムは軽く鼻から息を抜くと、マークには見せずにやんわりと笑んだ。準備を終えたらしいマークが彼を振り返った時にはもう、その笑みは仏頂面の下に隠れていたが。
「さ、父さん座って下さい。大サービスで僕が背中を流しますよ!」
「いや、それくらい自分で出来る」
「まあまあそう言わずに! いつも父さんにはお世話になってるんですから、たまには親孝行させてください」
親孝行、なんて殊勝なことを言われると無下に断るのも可哀想な気になってくる。
それなら……とクロムが渋々承諾すれば、マークは布をぎゅっと握りしめ「ぴっかぴかにしますよ!」と胸を張った。
小さなイスに腰掛け、マークに背中を任せながら床を眺めていると、クロムはなんとも言えない不思議な気分になった。
そういえば、こんなふうに誰かと風呂に入るなんて何時ぶりだったろう? しかも背中を洗っているのは、この時代では未だ生まれてもいない息子――それも、自分の年齢とそれ程変わらないであろう息子だ。
(そうだ、息子……なんだよな)
普通に考えればまず有り得ないこの状況は、少し可笑しいくらいにちぐはぐだった。
兄弟? 友人? 主従? 師弟?
この感じを何か似たものに当てはめようとしても、どれも違ってしっくりこない。
それもそうだ、だって親子なのだから。
これ程大きく育った少年を相手に親子だなんて、しかもその相手に親孝行したいと慕われるなんてやっぱり不思議な気分で、親子という感覚すらどこかおぼつかない。
だが。最初こそ渋ったものの、いざ実際にこうしてみればそんなに悪い心地はしないのもまた、確かだった。
「父さん、僕の剣術どうですか? 成長しました?」
背後からのマークの問いに、先程までの打ち合いを思い浮かべる。
「そうだな……スジは悪くない。お前が最初に教えて欲しいと言ってきた頃に比べれば良くなってる。ただ……」
「ただ?」
「さっきの打ち合いの時、意味のわからん構えをしてただろう!? あれは何だ、新手の威嚇か?」
背中を任せていることも忘れ、思わず振り向くとマークはきょとんとしている。
それから思い出したようで、彼は布を握ったままポンっと手を叩いた。
「構え……ああ! あれはウードさんと一緒に考えたかっこいいポーズですよ。名付けて『魔を払う聖竜の咆哮』です!」
「名前なんてどうでもいい! 頼むから実際の戦場ではやるなよ……屍兵どもには威嚇にすらならん」
「いいと思ったのになぁ」
悪びれないどころか何が問題かもわからない様子で残念そうにしているマークを見ると、クロムは頭を抱えたくなった。
「……俺は時々、お前の感覚がわからん」
自分の体を洗い終わった後、礼に背中を流してやるとクロムが言うと、マークは嬉しそうにはしゃいだ。
そんなに嬉しいものなのかと、単純な反応に少し驚きはしたが悪い気はしない。
「ところで父さん、折角なんでちょっと聞いてみたいことがあるんですよ」
「なんだ?」
「父さんはどうやってあの母さんを口説き落としたんですか?」
「ぶっ!?」
背中を洗っていた手は狙いを外し、クロムは勢いのままマークの背中に顔から突っ込んだ。
「うわっ! なんですか父さん!?」
「それはこっちのセリフだ!!」
怪訝な顔つきで振り返ったマークに、軽い憤りを覚えながら言い返す。
よくも突拍子もない事ばかり思いつくものだ。動揺しないほうが難しい。
「ルキナといいお前といい……なんでそんなことを聞きたがる!?」
「ルキナさんのことはわかりませんが、僕は純粋に気になってるんです。だって相手はあの天才軍師の母さんですよ!? 並大抵のことで落とせるとは思えませんからね。ねえ父さんどうやったんですか? 母さんの好みや情報を徹底的に調べあげたり、行動パターンを覚えて先回りしたりとかしたんですか?」
もはや完全に背中を洗われていることも忘れ、全身でクロムに向きあったマークがきらきらした目で夢のように語る言葉は、クロムの予想の斜め上遥か彼方を矢のように飛んでいく。要するに、マークの思考に追いつける気がしない。
「それじゃストーカーだろう!? そんなことするか!」
「うーん……じゃあ、女の子が好きそうなロマンチックな演出とかですかね? ピンチに陥った母さんをさっそうと助けてお芝居みたいな愛の言葉を囁いたりとか、母さんの寝所を綺麗な花でいっぱいにして『君の好きな花を集めてみたんだ』とか、あとは……」
「も、もうよせ! 背中が痒くなってきた……よくそんなことを次々思いつくな……」
「だってあの母さんを落としたんだから、普通の想像じゃ及ばないようなすごいことをしたんだろうと思いまして!」
「マーク、お前は俺とルフレを何だと思ってるんだ……。はあ、もう……いいか、ルキナには絶対に言うなよ。詳しく話せとせがむに決まってる」
こいつのよく回る口を止めるにはもはや期待を叶えてやるほか無い。
心底げんなりしているクロムとは対照的に、こくこくと頷くマークは興味津々といった様子だ。
「何ですか? 何をしたんですか父さん?」
「何もしてない」
「え?」
「だから、お前が期待するような特別なことは何もしていない。まあ、その、色々あって……勢いで想いを告げたら、あいつも同じ気持ちだと言ってくれた。それだけだ」
息子相手に何を喋ってるんだろう俺は。穴があったら今すぐ入りたい。
ゴニョゴニョとごまかした部分は何があろうと、どれだけせがまれようと絶対に話さないと心に決めているものの、これだけでも十分罰ゲームを受けている気分だ。
苦し紛れに片手で顔を覆ったものの、恥ずかしさは拭いようがない。
「……え? 勢い、ですか? 作戦とかシチュエーションのセッティングとかなかったんですか?」
「そんなもの無い」
「なんだ、てっきり僕は父さんがすごいことをして、それで母さんの心を射止めたものだとばかり。そうか……母さん、それだけ父さんのこと大好きなんですね!」
「お、おまえよく臆面もなくそういうことを」
深く追求されなかったのは良かったものの、今度は違う方向から意表をついた言葉が飛んでくる。
悪い気もしないし嬉しいことは嬉しいが、それを息子から告げられて素直に喜べる神経はあいにく持ち合わせていない。むしろ恥ずかしさの上乗せだ。
「だってそうじゃないですか。母さんにとっては何もしなくても父さんは魅力的だったってことですよね? 期待してたのとは違いましたが、父さんと母さんがラブラブで安心しましたよ〜。この分だと僕も無事に生まれてきそ……」
「あぁもうこの話はやめだ!! マーク、お前まさかこんな話のために一緒に風呂に入ろうとか言い出したんじゃないだろうな!?」
これは一体何の拷問なんだ!!
どこまで分かって言っているのかわからない息子の言葉はもはや凶器にも等しい。
クロムが責めるように問いただしても、マークはからからと笑うばかりであっけらかんとしていた。
「あはは! まさか、違いますよ〜! まあこれも気になってたことなんですけど」
だが、言葉を切った彼はその笑みを小さくすると、彼にしては珍しく遠慮がちに続ける。
「本当のところを言うと、ちょっと羨ましかったんです」
「羨ましい?」
「ウードさんとか他のみんなを見てたら、僕も父さんと親子らしいことをしてみたいなーって思ったんですよ」
そうして、マークは何でもないようにへらっと笑った。
「ほら、僕父さんのこと覚えてないじゃないですか。だから今まで父さんとどういう風に過ごしてきたのかわかんなくて。一緒にお風呂に入るのとか、それっぽいかなーと思ったんです。もしかしたら、未来でも一緒に入ってたかもしれませんし」
「……何か思い出せたのか?」
同じようにまくしたてているものの、さっきまでとは声の様子が違うことにクロムは気がついていた。
羞恥や憤りで賑やかだった心も今は凪ぎ、静かな声でマークに尋ねたものの、彼は眉尻を下げて笑うばかりだった。
「いえ、なーんにも。そうだったらいいなって思っただけです」
そんなマークの様子をしばらくじっと眺めていたクロムは、浮かんだ思いを率直に言葉に乗せ、ゆっくり声にする。
「お前の言う親子らしい事というのがどういうものなのか、俺にもよくわからないんだ」
「父さん?」
「俺の父は幼い頃に亡くなった。だから、一緒に何をしただとか、どういう風に接していただとか……正直、ほとんど覚えていない。そういう意味では、今のお前とあまり変わらないのかもな」
思えば確かにそうだった。
記憶の中の父の姿はすでに遠く、おぼろげだ。代わりに思い出すのは優しく微笑む姉の姿で、それすらも過去のものになっていく。どちらも取り戻すことは出来ず、新たに綴られることもない、古びていくばかりの記憶。
求めているものを与えてやれないというのは、少し歯がゆい。
「そっか……僕と父さん、なんだかちょっと似てますね」
「そうだな、どっちもわからない者同士だ」
少し茶化すようにそう言って、クロムは笑ってみせた。
それから一呼吸。
新たな気持ちを込めて、彼は息子に声をかける。
「なあ、マーク。思うんだが」
「なんですか?」
「俺とどうやって過ごしていたか思い出せないなら、これから思い出を作っていけばいいんじゃないか? 親子らしさがわからないなら、俺たちなりのやり方を探せばいい。少なくとも……お前に剣術を教えるのも、こうして一緒に背中を流し合うのも……悪くないものだと思ってるぞ、俺は」
マークがいた未来で、自分がどのように彼と接していたのかを知るすべはない。
それでも一つだけ分かっていることがある。
それは。未来の自分もきっとこうして手探りで、彼やもう一人の娘の父親になっていったのだろうということ。目の前の息子が幼かろうと大きかろうと、やることは変わらない。
マークに背中を流してもらった時、掴みきれなかった不思議な気分のカタチが少し見えた気がした。一緒に笑って、一緒に悩んで、日々を過ごしていく。そんな中で、こんな風に見つけて、築いていくのだろうと。何物でもない『親子』になっていくのだろうと、そう思ったのだ。
「……やっぱり父さんはすごいですね。母さんを落とすだけはあります」
「あのな、」
我ながら折角いい話をしたと思ったのに相変わらずの反応だと、呆れかけたところで。
「だってこんなにあっさり、しかもすごく前向きな答えを出しちゃうんですから!」
そう言って、マークはあははと声を上げて笑った。
その笑顔はさっきの繕うようなソレとは違って、心から浮かんだもののように見えた。
クロムは内心でホッとしつつ、あまり表面には出さずに「ほら、まだ背中を洗い終えていないんだ」とマークに背を向けさせた。
「ねえ父さん」
間も無くして、背を向けたままマークが呟くように呼ぶ。
「ん?」
「僕の父さんが、父さんで良かったです」
クロムは背中を洗う手を止めると、何も言わずにマークの頭をわしゃわしゃと撫でた。
振り返らないマークの、嬉しそうに笑う声が聞こえる。その声がクロムの頬をほころばせたことには気付きもせず、彼はただただ楽しそうだった。
「ふふ、なんだか楽しいですね! 今度は母さんと一緒に入ろうかなぁ」
「それはダメだ。俺だってまだ一緒に入ったことないんだからな!」