「ルフレ」
リズさんの天幕で雑談を終えた私は自分の天幕へ戻る途中だった。見慣れたかたちが見えたところで名を呼ばれ、足を止めて振り向く。
「あ、クロムさん。何かご用ですか?」
「いや、用というわけではないんだが」
「?」
しっかりと名前を呼んだ声のわりには、続く言葉はもそもそと頼りない。いつも堂々としているクロムさんにしてはなんだか珍しい態度だな、と思いつつ、私は言葉の先をしばらく待ってみる。
クロムさんの蒼い目は水の中の魚みたいにゆらり、ゆらりと小さく泳いで、それからごほんと咳払いをひとつ落とした。何か言いにくいことでもあるんじゃないかと、私に思わせるには充分な材料だ。
もしかして、また訓練中にカベやら何やらを壊したのだろうか。そういえば少し前に「これを修理するのにもお金がかかるんですよ」とお話したところだった(行軍中のお財布は決して余裕のあるものではないのです)から、言い出しにくいのかもしれない。
「あー……その」
「はい?」
「今日は天気がいいな」
拍子抜けした、というのが一番ぴったりな言葉だった。日常的で、いたって普通の会話のひとつで、ためらうように言う必要などどこにもなさそうな平和な言葉。
言われて思わず見上げた空は、すっきりと青く晴れて柔らかな雲は枕にしたいくらいにふわふわと浮かんでいた。確かに、今日は天気がいい。
「そうですね、からっと晴れて気持ちがいいですね」
「この辺りの屍兵の被害も少し落ち着いてきたようだ」
「先日の掃討戦が功を奏しましたね。ほっとしました」
殺伐として、とにかくがむしゃらに戦った時間を思い出すと、心からほっと安心する気持ちになった。近くの街も大きな被害を受けずに済んだと聞いているし、努力が報われたような気がして嬉しかった。
それからも、クロムさんの口からはとりとめもない話題がぽろぽろと続いた。朝はすっきり起きられたか、最近調子はどうだ、使っている武器のほうの調子は、などなど。関連性があるようでないような話にひとつずつ返事をして、繋がっているようで繋がっていないような会話が行き来する。朝はちょっと寝坊しました、調子はいいですよ、武器もまだまだ現役です……そのたびに、クロムさんは短く相づちを打つ。
会話の真意が読めないな、と思いつつ、単に他愛のない話がしたいだけなのかも、とも思い、私は深く追求することはしなかった。気にはなったけれど、こうしてただ話すだけでも私は楽しかったから、余計にそうする気持ちが起きなかったのだと思う。
「それで……久しぶりの自由な時間だな」
「はい、おかげで溜まっていた戦術書がゆっくり読めます」
今までと同じように、思ったことをそのまま返事にすると、これまでと違ってクロムさんはやけにがっかりしたような顔をする。
「そ、そうか……そうだな、そうだよな……うん」
お世辞にもこれまで歯切れがいいとは言えなかった声がますますもって力をなくしたので、私の胸には不思議というより心配な気持ちがわきあがった。何かおかしなことや悪いことを、私は言ったのだろうか。
「クロムさん? どうかしたんですか?」
「いや、なんでもない……ちょっと鍛錬してくる」
「は、はあ」
なんでもなさそうには見えませんよ。なんて言えず、私はとぼとぼと背中を見せて歩き去る彼にあいまいな声しか返せなかった。ため息まじりな語尾が気にかかったものの、結局最初から最後までクロムさんが何を話したかったのかはわからずじまいだった。
調子でも悪いのだろうか、と少し気になりつつ、ひとまず天幕へ戻ろうと思った時。
「ははーん。お兄ちゃん、それで落ち着きなかったんだ」
「ひゃあ!」
真後ろからの声に心臓が飛び出そうになった。代わりに間抜けな声が飛び出た程度で済んだのは、良かったのか悪かったのか。
慌てて振り向くと、そこには目を爛々と輝かせたリズさんがいつの間にか立っていた。
「り、リリリズさん?! びっくりするじゃないですか!」
「ごめんねー。忘れ物届けに追っかけたら、お兄ちゃんと話してたから」
「そうですか……ありがとうございます。えっと、クロムさんの落ち着きがないとは?」
「ああ、いいのいいの! こっちの話だよ!」
ブンブン手を振って何とも軽い調子で受け流したリズさんは、はい、と持ってきてくれたものを私に差し出す。受け取ったものは、携帯用の筆記具だった。座った拍子にでも落としていたんだろうか、全然気が付かなかった。
用件は済んだと思うのに、リズさんはまだ私を見てにやにや笑っている。何か楽しいものを見るようなそんな笑い方だ。
「……あの、リズさん? まだ何か?」
「あのねルフレさん。お兄ちゃんって、ちょっとぶっきらぼうなところあるでしょ?」
「まあ……そうみたいですね」
先ほどの会話を思うと、リズさんの言葉には妙な説得力がこもる。
「隠しごととか、何かをごまかしたりするのすっごく下手なの」
「確かに……」
最初に感じた疑問や予感はどうも当たりだったらしい。やっぱりきいておけばよかったのかも、という気に今頃なってくる。
「多分いま聞きに言っても意地張っちゃうと思うからさ、しばらくしたら声かけてあげて欲しいな。ルフレさんから話しかけたら、お兄ちゃんきっと喜ぶよ」
「? そうなんですか? わかりました」
笑ってそう言うリズさんの言葉の意味は、今ひとつよくわからなかったけれどとりあえず承諾した。同年代の友人が少ないから、という意味だろうか。
確かに私も彼のことが気になっていたから、リズさんの助言通りあとでクロムさんの様子を見に行ってみよう。それまでは、彼にも言った通り久しぶりの自由時間を読書に費やすことにした。
***
リズさんのアドバイスを実行に移したのは、1時間くらい本を読んだ後だっただろうか。結局私のほうがそわそわと気になってしまって、彼を探しに出てしまった。
「クロムさん」
「ルフレ?」
見つけた時、クロムさんは言葉通り鍛錬の真っ最中だった。額に汗を光らせて相棒の剣を振るっていた彼は、呼びかけるとその手を休めて私の方を見る。
「熱心にされてたんですね」
「……まあな。訓練するのは好きなんだ」
そう言ってクロムさんは近くの切り株にどかっと腰を降ろす。その割には表情はいまひとつさえなくて、言葉にあまり説得力がない。そのことに彼は気づいているんだろうか。
先のやり取りを思い出して、私はちょっと積極的になることにした。
「でも、あんまり成果は上がってなさそうですね」
「どうしてそう思う」
「だって、いつもはもっと活き活きと体を動かしていますよ、クロムさん。今日はなんだか打ち込めてないって感じですね」
「うっ……それもお前の軍師としての能力か?」
クロムさんが苦虫を噛み潰したような顔をした。
「違いますよ。いつも近くで見てるからわかるんです」
私がそう言うと、クロムさんは一瞬目を丸くしてさっと顔をそむけてしまった。もごもごと「そ、そうなのか」と照れたような声がきこえて、なんだか私の体温は少し上がった気がする。ちょっと恥ずかしいことを言ってしまったような気がした。
しばらくの沈黙。どっちも何を言ったらいいかわからないような空気にのまれそうになりながら、どうにかそれを破りたくて、私は思いつくまま声にする。
「そうだ、クロムさん。気分転換に私と街へ出ませんか?」
「なっ!?」
先に驚いたのはクロムさんだったかもしれないけれど、私だってその反応に充分驚いた。
「えっ何ですか? 私また何かおかしなことを言いました?」
さっきも同じようなことを考えたなと思っていると、クロムさんはちょっとの間目をぱちくりさせて呆然とし、それから気負っていたものが抜け落ちたように大きく息を吐いた。
私には何が何やらさっぱりわからないままだけれど、クロムさんは何か観念したようだった。
「……いや、そんなんじゃない。ただ、お前が俺の言いたかったことをあっさり言うから」
「言いたかったって……」
そう呟いて、私はピンときた。今までの流れから考えれば、多少の疑問は残るものの答えは簡単に見つかる気がした。
「もしかして、さっきも街に行こうって声をかけようとしてくれてたんですか?」
それなら合点がいくのだ。私が自由時間の過ごし方を答えたとき、あんなふうにがっかりして見えた理由に。
「……そんなところだ」
「それなら、そうと言って下さればよかったのに」
「別に、特に用事があるわけじゃなかったからな。理由もなく街に行こうと誘うのもどうかと思ってだな……」
きまりが悪そうにクロムさんはファルシオンをもてあそびながら言う。その姿はリズさんが言う「ぶっきらぼう」という表現がよく当てはまって、小さく笑みがこぼれた。
「いいじゃないですか。行きたいと思ったから。理由はそれで充分です。自由時間の使い方は、それこそ自由なんですから」
ただの一言。それで済むのに、うまく言う方法を知らない人なんだ。目の前の人は、そういう人間なんだ。そう思うと、どこか不器用な彼にかわいらしさを感じるのは、きっと彼にとっては不本意なのに違いない。でもそんなところがまた私の胸をほうっとあたたかくしてくれる。
「それに、私は嬉しいですよ」
その相手に私を選んでくれて、というのは言わないでおいた。隠した言葉の理由はなんとなくわかっているけれど、今はまだそっとしておきたかったから。
「そうか。それなら……いいか」
クロムさんは少し意外そうな顔をして、それからはにかんだように笑った。相棒の剣は腰のさやへ、それから立ち上がって、私の隣に並び立つ。
歩き出した私たちは他愛のない会話をする。今日は出かけるにはぴったりの天気ですね。街に着いたら何をしましょうか。あなたは何がしたいですか。こんな話をするだけで、私の心はおどるのだ。
俺は肉が食べたいなんて、クロムさんは遠い目をしている。そんな彼に、少し笑って私は心で話しかける。
ねえクロムさん。私もちょっとごまかしました。気分転換なんて言ったけど、それはうまく見つかっただけの理由で。クロムさん。あなたと一緒にいたかったから。私にとっての理由なんて、それひとつで、ほんとはよかったんです。あなたもそうなら、嬉しいのに……なんて。
「……ん? どうしたルフレ?」
「ふふ、私もなんだかお腹が空いてきたなって思ったんですよ」
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