「く、クロムさん!」
空いた時間にクロムさんの天幕を訪ねると、ちょうど彼が中から出てくる所に出くわした。このチャンスを逃したくなくて、名を呼ぶと声に自然と力がこもった。それに驚いたのか何なのか、クロムさんはやけに慌てたような素振りを見せる。
「うおっ?! る、ルフレか?」
私の姿を認めると少し気まずそうに咳払いをして
「あー……ちょうどいい、少し街へ出てくる」
と言葉を続けた。本当に、どうしてこうもタイミングがあわないのだろう。私には何か疫病神の類でもついているのかと疑いたくなるほど昨日からうまくいかない。
「あ、今日は商隊が来ていますよね……買い出し、ですか? それなら他の方にお願いしていますし、何か入り用なら代わりに私が……」
「いや、頼めるものじゃないんだ」
「そ、それならせめて私も一緒に連れて行ってくれませんか? あまり一人で出歩かれないほうがいいと思いますし」
とにかく二人で話すきっかけが欲しかった。自分でも言い訳めいていると思うけれど、今はそんなことなんてどうでもよかった。それに王族を一人で出歩かせるというのは確かにどうかと思うし、間違ったことは言っていない……はずだ。
でも、クロムさんは少し申し訳なさそうに眉根を寄せると、はっきり言い切った。
「ルフレ……悪いが一人で行かせてくれないか」
「……そう、ですか。わかりました。お帰りは……今から行けば、きっと夕方になりますよね」
「ん? そうだな、おそらくそうなるだろう。夕食には間に合うように戻る」
「それなら今夜、あなたの天幕に行ってもいいですか? 少し……二人で話がしたいんです」
「あ、ああ……わかった」
クロムさんは少し戸惑ったように見えたものの、今度は了承してくれた。今はそれで充分。そう思いながら街へと赴く彼を見送った後、緊張の糸が切れた私は自分の言葉の含みうる意味を矢を射かけるような速さで意識して、顔がカァっと熱くなった。
よ、夜に男性の天幕を訪ねたいだなんて……はしたない女だと思われたかもしれません。もしかしたらそのせいでクロムさんは戸惑っていたのかも。そんな後悔と恥じらいが波のように押し寄せてきて、私はこれ以上赤くなればいいのか青くなればいいのかわからなくなってしまった。
長いようで短いような空白の時間、私はクロムさんのことばかり考えていたような気がする。何て言おうか、どういう風に話そうかたくさん考えたはずなのに、彼の天幕でいざ本人を目の前にすれば頭の中はペガサスの羽根のように真っ白。ただ胸の音だけが静かな夜を侵してしまいそうなほどにドキドキとうるさい。こんな人間が軍師を名乗るなんて呆れる話だ。
「で、ルフレ。話って何だ?」
昼間と違って落ち着いた様子でクロムさんは私に話を促した。私は胸に手を当て一息つくと、すべてのためらいを捨ててまっすぐに彼を見つめた。クロムさんもまた、まっすぐに私を見てくれている。
「あの……率直に訊きます。クロムさん、私に何か隠し事をされていませんか? 以前……その、告白して下さった時みたいに避けられているわけではないですが、一緒にいても心が一緒にいないような、そんな気がして」
「ルフレ?」
言いたかったこと、聞きたかったこと、それ以外の胸の内。勢いづいた言葉に理性が追いつかない。だんだん自分でも何を言っているのかわからなくなってくる。まるで、私の中にぽこぽこと生じたたくさんの不安が我先にと飛び出していくよう。何とかしようにも止め方がわからない。
「も、もしかしたら告白したことを後悔されているんじゃないかって! ほ、ほら、私そもそも女だと思われてなかったわけですし、あの事故みたいな出来事でちょっと気が動転してただけで落ち着いてみればやっぱりそれ程魅力なんて感じない、とか……だったら、ど、どうしようって」
自分でも制御できない言葉が内側から溢れて止まず、言いながら「あれっなんで私はこんなことを言ってるんでしょう?」と思うと恥ずかしさと情けなさが涙になってぼろりとこぼれた。これでは一方的にクロムさんを困らせているようなものだ。ますます、こんなつもりじゃないのにと心苦しくなる。
「そ、そんなことあるわけないだろう!!」
反射的にびくりと衝撃が走り、瞬きをするとまたひとつ大粒の涙がポロッとこぼれた。よく見ればクロムさんも何やら切羽詰まったような顔で、先程の落ち着きなどどこにも見当たらない。
「俺はここのところずっとお前のことばかり考えていたんだ! どうすれば喜んでくれるか、そればかり考えてずっとお前のことを見ているとどんな仕草も愛しくて、お前のことを知れば知るほど魅力的で……あッ!? し、しまった……」
クロムさんは自分が何を言っているのか把握した途端、とんでもない失態を犯したとばかりに右手で顔を覆って俯いた。私の方はというと、今の今までの自分の暴走とクロムさんの思いもよらない言葉の数々とが頭の中で大混戦していて、かろうじてその名を呼ぶのがやっとだった。
「く、クロムさん?」
「はぁ、こんなこと言うつもりじゃなかったのに……くそっ!」
自分自身に悪態をつくクロムさんの耳が見る間に赤く染まっていくのと同じくして、私の頬もまた急速に熱を帯びていく。理解しだした彼の言葉の意味と、赤く染まったその耳の両方が私の熱を上げる。
隠すようにしていた手をずらして、クロムさんが伺うように私を見た。その目にはどれほど沸騰した私の顔が映っているのだろう。やがて彼は観念したように息を吐いて気持ちを落ち着かせたようだった。
「そもそも……お前にそんな不安を抱かせていたなんて思いもしなかった。俺もまだまだ未熟だな。確かに、俺はお前に隠していた事がある。それについては……言うより、このほうが早いか」
そう言うとクロムさんは衣服から何かを取り出して私の方へ歩み寄った。思いの外二人の間は縮まって、触れるどころか抱きしめられそうな距離まで来ると彼は少し腰を屈め、何の前触れもなく私の首筋に手を伸ばす。
「んっ……」
顔も体も、私より大きくて武骨な手も、静かに繰り返す息遣いさえも。彼の全てがあまりに近いところにあって息が止まりそうだ。首の後までまわされた彼の手が触れた部分は、ぞわりと熱くて身体が震えた。
この時間が永遠のように感じられた頃、クロムさんの手はスッと戻っていった。それを少し心さびしいと思いながら、私はふと首筋と胸元にある違和感に気づく。
「え? これ……首飾り、ですか?」
呟きながら眺める自身の胸元には、見たことのない首飾りが飾られていた。中心に雫のような形をした青い宝石が控えめに輝いている。こんなものを身につけるのは、記憶にある限りでは初めてのことだった。
「俺は段取りも何もなく、ただこの胸の衝動を抑えきれずにお前に想いを告げてしまった。そのせいで何の準備も無くてな、お前に何も贈ることが出来なかった。本来なら誓いを込めて指輪を渡すところだが……今はまだ、その時じゃないしな」
一度言葉を切ったクロムさんは、一呼吸おいて私をまっすぐに見つめた。その真剣な眼差しに吸い込まれてしまいそうだと思う。
「改めて言おう。ルフレ、俺はお前を心の底から愛している。その証として、どうかこの首飾りを受け取って欲しい」
胸が、ぎゅっと苦しくなる。今まで一人で不安を抱えていたときのソレと違うことはよくわかっていた。うまく返事ができなくて、喘ぐような息ばかり漏れそうになるのをどうにか抑えて言葉にする。
「……クロムさん、反則ですよ」
「ルフレ?」
「嬉しくて……死んじゃいそうです」
「はは、それは困るな。俺たちはまだまだこれからなんだ」
笑うクロムさんはどこかホッとしたように眉の力が抜けていて、緊張していたのは私だけじゃなかったんだと悟った。
今まで遠回りをしていた気がする。わからなくなったり、不安になったりしたけれど、ふたを開けてみれば何も怖いものなんてないし、クロムさんは私を好きだと言ってくれたクロムさんのままだった。私は、影の中の居もしない悪魔を怖がる子どものようなものだったのだ。
「私、多分寂しかったんです。一人で勝手に怖がって、不安になって……。でも、そんなの全部要らない心配だったんですね。私も、まだまだです」
「そうか、こっそり用意してお前を驚かせたくてな、あれこれ考えていたんだが……どうやらそれが裏目に出たみたいだな。今日一人で街へ出たのだって、お前に秘密で贈り物を用意したかったからなんだ。今まで不安にさせてすまなかった」
「いえ、いいんです。あなたの気持ちが何より嬉しいです。それにこの首飾りの石の色……クロムさんの髪の色とよく似てますね」
持ち上げてクロムさんの髪と照らし合わせてみると、本当によく似た色をしていた。やさしく、大きく包んでくれる空の深い青のような色だ。
「ん? そう言われればそうだな。それは魔除けの宝石を加工したもので、持ち主をあらゆる厄災から守ると伝えられているらしい」
「そう、なんですね。綺麗で……素敵な、贈り物です。いつでもクロムさんがそばで見守ってくれているようで、安心します」
クロムさんの髪と同じ色をしたソレをそっと握りしめて言うと、彼は頬にやわらかな笑みをのせて「そうか」とだけ呟いた。それが愛しくて、私は思わず彼の身体に抱きついた。 気恥ずかしさや照れはもちろんあったけれど、そんなものよりもっと強い気持ちがこの胸をあたたかくする。
「る、ルフレ?」
「……ありがとうございます。私、あなたに愛してもらえて……あなたを好きになって、すごく……幸せです」
戸惑っていたクロムさんの手が、ゆっくり私の背中に回されてすっかり包み込まれる。全身に伝わる彼の体温が、私と同じ早さで脈打つ鼓動が、愛しいと伝えてくれるようで、私はそんなやさしい幸せに身も心も委ねる。
「ああ……俺もだ。ルフレ、今夜はたくさん話をしよう。すれ違った時間の分も、たくさんな」
「……はい!」
きっと今夜は長くて短い夜になるのだろう。話したいこと、知りたいことは一晩では尽きないほどたくさんある。だって私たちはまだまだ未熟で、これから始まる二人なのだから。