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箱の中身は

 ほんの一瞬、心を奪われた。一息に距離を詰められた刹那、俺を射抜く真剣な眼差し。揺れる髪、その体からほのかに香る甘い匂い。振り払えなかった、彼女の何ひとつ。
 これは報いだと思った。あるいは警鐘か。訓練用の剣で強く殴打され赤く腫れた腕をさすりながら、そんなことを考えていた。
 一騎打ちでの模擬訓練はフレデリクの号令で終わった。広場に集った者たちは皆、思い思いに自由にしているのですでに集団ではなく個の集まりになっている。俺に一撃を見舞った相手、ルフレの姿もすでにない。彼女は訓練が終わるなり、申し訳なさそうな顔をして「薬をとってきます!」と駆けていってしまったのだ。気にするな、とかけた声はどうも届かなかったらしい。
 さてどうしたものか、と思い始めた矢先、ふらりとやって来た一人の男が俺に声をかけた。

「よう、クロム。珍しく派手にやられてたな」
「ガイアか。見てたのか?」
「まぁな」

 そう言ってガイアは俺の腕を眺めると、少し眉をひそめた。きっと痛そうだとか思っているのだろう。そう言いたげな目をしていたが、気を取り直したように俺の顔を見た。

「今、いいか? 場所を変えて少し話そうぜ」
「? ここでは駄目なのか? 今ルフレが薬を取りに行ってくれているんだが」
「そんなに時間は取らないさ。すぐに戻ってくればいい」

 走り去った彼女のことは気がかりだったが、ガイアがここまで言うならそれを強く拒否することもない。それに、彼が何を話したいのかも少し気になった。

「それなら構わないが……」
「よし、じゃあちょっと移動しよう」



「この辺りでいいだろう。ここなら誰も来ない」

 そう言うガイアが俺を連れてきたのは森に近い天幕の裏だった。この天幕は物置に使っているものなので、普段はあまり人が寄り付かない。風が木々の葉を揺らす音や鳥の鳴き声ばかりが聴こえる、静かな場所だった。

「それで、話とは何だ?」

 わざわざあのタイミングで、人のいない場所まで選んだ割にはガイアは取り立てて切迫した様子ではない。急ぎの用や重大な相談事ではないようだと察した一方、それでは何の話なのかということはさっぱりわからない。俺が率直に尋ねると、ガイアはわずかにためらうようにして太陽色の鮮やかな髪を掻いた後、口を開いた。

「単刀直入に聞くが、クロム……お前好きな女でも出来たか?」

 不意打ち、とはまさにこのことを言う。思いもよらぬ問いかけに心臓が強く跳ねた。

「なっ?! 何だいきなり?!」
「いや、ちょっと気になったんだよ」

 で、どうなんだ、とガイアは返答を急かす。俺と違って落ち着いたその声はからかいの色などどこにも含んでいない。

「そ、そんな奴……いない」
「……ルフレじゃないのか?」

 その名を聞いた途端、体中がカッと熱くなる。この感じは何かに似ていると思った。そう、たとえるなら誰にも見られたくない宝物を暴かれた瞬間のような、恥ずかしさや焦りが入り混じったような衝動的な感覚。それが頭の先まで駆け巡るような気がして、俺は思わず声を荒げていた。

「あいつはそんなんじゃない!!」

 あいつは、ルフレはそんなものではない。ならば何だ。あいつは俺の何だ。そう問いかけてくるのは、ガイアの静かな眼差しのようでもあり、俺自身のようでもあった。

「あいつは相棒で……親友だ。あいつだって、そう思ってくれている」

 以前俺がルフレに言った言葉だ。そしてあいつが、笑って受け入れてくれた言葉だ。だからそこに偽りはない。一片のくもりもない事実のはずなのに、一度自分で口にした言葉だというのに、今の俺はひどく胸が痛むのを感じていた。チクリ、などと生やさしいものではない。槍でも刺さったような重い痛みが波紋を広げる。
 得体のしれない感覚に立ち尽くす俺を見ていたガイアは、しばらく観察しているような素振りだったが、やがてため息を漏らした。

「ふーん……。じゃあ聞くが、ルフレが誰かの女になってもお前は構わないのか? それでも今みたいに相棒だ親友だって、あいつの隣で言えるのか?」
「そ、それは……」

 俺は言葉に詰まった。理由は至って単純だ。そんなこと、考えたこともなかったからだ。ルフレが誰かの女になる。ガイアの言葉が頭の中で何度も、何度もこだまする。そのたびに頭を強く殴られたような鈍い衝撃が俺を襲う。
 誰かの女になるということは、誰か一人の男があいつの全てを得るということだ。名を呼ぶ声、特別な笑顔、触れる温もり。偶然目にした滑らかなその体も、誰にも見せないあいつの生々しい部分も、全て。俺ではない誰かに、向けられるということ。
 考えたこともなかったことは、吐き気がするほど考えたくもないことだと初めて知った。何故、と自身に問いかけそうになりグッと押しこめる。あいつは俺の親友で、俺がそう望んで、あいつはそれを受け入れた。それで、笑ってくれたのだから。
 これ以上考えてはいけない、とどこかで警告している気がする。浮かんだ思いを振り払うように深く息を吐いて、俺はガイアに向き直った。

「それは、ルフレが決めることだ。何があっても、俺があいつを信頼する気持ちは変わらん」
「王子様らしい模範解答だな。まあ、お前がそれでいいなら俺は構わないんだが。……だがな、クロム」

 馬鹿にするでもなく、ただ淡々と感想を述べるようにしてガイアは言い、少し真面目な目をして改めて俺の名を呼ぶ。

「俺が口を出すことじゃないかもしれないが、もう少し自分の気持ちと素直に向き合ってみたらどうだ? 前にも言ったが、お前は自分で踏み出す力を持ってる。それをするかしないか、決めるのはお前だ」

 何も言葉が返せなかった。見抜かれている、と感じた。
 ガイアは俺よりもたくさんの物事を知っている。それは決して綺麗事ばかりではないが、教わるものも多い。以前自由を知りたいと俺が漏らした時にも、ガイアは俺に教えてくれた。外の世界のこと、自由であるということ、俺が選ぶということ。
 ガイアはきっと俺の中の、自分でも持て余しているこの感情が何なのかを知っている。先ほどとはまた違う意味で、彼の言葉は深く俺の心に染みこんでいく気がした。
 ガイアはふっと息を吐くと、やれやれというように小さく笑った。

「こういう無料奉仕のお節介は柄じゃないはずなんだけどな。……俺たちは明日死ぬかもしれない、そんな身だ。後悔だけはするなよ」
「そうだな……ありがとう、ガイア」
「……話はそれだけだ。連れ出して悪かったな。じゃ、俺はその辺をブラついてくる」

 そう言うとガイアは俺に背を向け、ひらりと手のひらを軽く振ると振り返らずに森の奥へと姿を消した。何か甘いものでも探しに行ったのだろう。
 あいつがもう戻ってきているかもしれないと思いつつ、広場へ向かう足はあまり早くはない。ガイアの残した言葉の意味を、俺の心に渦巻く感情の正体を、ぼんやりと考えていたからだった。



「あっクロムさん?! どこに行ってたんですか、すごく探したんですよ!」

 広場に戻ってくると、辺りをきょろきょろと見回していたルフレに見つかった。ばちっと目が合うその一瞬後、俺の心は大きく跳ね、彼女はすぐさま駆けてきた。

「すまん、ちょっとガイアと話をしていた」
「それはいいんですけど……その、腕は痛まなかったですか?」
「腕?」

 言われて初めて思い出すと、俺の腕は赤く腫れたままだった。不思議なことに、今頃になって痛みがジンジンと主張し始めるが、最初ほど気にはならない。

「ああ、忘れてた」
「こんなに腫れてるのに? まぁ……よほど熱心にお話しされてたんですね」

 ルフレは信じられないという面持ちで俺の顔と腫れた腕を交互に見た。

「そこの椅子に座って下さい。今、薬草を貼りますから」

 言われるままに手近にあった椅子に座り、腫れたほうの腕を出す。わかっていたはずなのに、ルフレの白い指が俺の腕に触れた途端体中を熱が駆け廻る。触れられているところに全ての神経が集中しているように思えた。体が熱い。心臓がおかしい。背筋をぞわっとした奇妙な感覚が走り抜けていく。思わず、息が詰まる。

「っ!」
「あ、痛かったですか?」
「い、いや……大丈夫だ」
「まさかあんなに真っ直ぐ決まるとは思わなくて……ごめんなさい」
「お前のせいじゃない。俺が集中できていなかったせいだ」
「でも……うーん、確かに今日はクロムさんらしくありませんでしたね。何かあったんですか?」
「いや、ちょっと調子が悪かっただけだ。すぐに治る」
「そう、ですか? 心配ですから、早くいつものクロムさんに戻って下さいね」

 そう言って薬草の上から包帯を巻き終えたルフレが手を離すと、永遠のように思われた時は名残惜しさを残して消える。俺の身を案じる彼女の声が存外にやさしくて、その思いはますます膨れ上がる。
 このまま抱きしめてしまいたい。わずかに触れられるだけでは足りない。もっと、もっとと心臓が早鐘を打って急かす。
 湧き上がる思いのまま伸ばしかけた手は、遠く彼女を呼ぶ声でかろうじて押しとどめられた。今、何をしようとした? もしも止められなかったら、どうなっていた? その先を思うと血の気が引く。

「何かあったみたいなんで、私ちょっと行ってきますね」
「あ、ああ。ありがとう、ルフレ」
「いえいえ、元はと言えば私のせいですしね」

 しばらく包帯を外しちゃだめですよ。そう笑って、ルフレは呼ばれる方へ歩いて行く。彼女が俺から離れてくれることが、今は何よりありがたかった。
 一人になっても、俺は椅子に座ったままぼんやりと空を眺めていた。巻かれたばかりの包帯の上から腕をさすると、鈍く痛みが主張する。それは思考の妨げには足りない。
 ガイアは言った。「自分の気持ちと素直に向き合え」と。だが、やはりそうすることはできない。衝動に身を任せそうになった自分を目の当たりにして、その思いは強くなる。
 家族を思うのとは違う。友を思うのとも違う。俺があいつに抱く想いは、もっと苦しくて、もっと甘やかで、もっと激しくて、もっと……ドロドロとしている。これが親友に向けられるものではないことくらい、さすがの俺でもわかっている。わかっているからこそ、こんな後ろめたい想いを、どうしようもない欲をあいつに向けるべきではない。あいつは……あいつが信じている俺は、「親友」なのだから。
 ルフレの笑った顔を思い出す。真剣な眼差しを、心配そうに揺らぐ目を思い出す。クロムさん、と幾度も名を呼んだその声を、思い出す。どうしようもなく胸が高鳴るのを抑える術がわからず、無駄だとわかっていながら夢中で胸を強く押さえる。こんなものを、こんな感情を認めるなんて出来るものか。そんなことを、してしまったら。

「俺はもう……あいつのそばにいられなくなる……」



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* 最終更新履歴 * 2012.05.24. *
恋にありがちな20のできごと
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